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インターネットの人の日記

何について書かれたのでもないものを書くことについて

 何について書かれたのでもないものを書きたい。文章を書き始めたころからずっとそう思ってきた。平凡で、無個性で、匿名的で、特に何かについて書かれたというわけではない詩や小説。特定のメッセージやステートメントを含まない、限りなくノーマルな文体で書かれた詩や小説。

 「何について書かれたのでもないものを書きたい」というのは、もともとギュスターヴ・フローベールが言っていたことらしいんだけど、自分はそれを知る前からずっとそう考えてきたから、蓮實重彦の『「ボヴァリー夫人」論』の中でフローベールのこの言葉が引用されているのを読んで、ものすごく共感した。フローベールがどういうコンテクストでそういう発言をしたのかは知らないけど、きっと純粋に「何について書かれたのでもないものを書きたい」と思ってそう言ったんだと思う。

 それでは「何について書かれたのでもないもの」というのは、いったい何なんだろうか? フローベールフローベールとして、自分なりの定義を考えてみたい。そもそも原理的に「何について書かれたのでもない文章」というのは存在しえないんじゃないだろうか。

 ある人間がある言語を使ってある文章を書くとき、彼あるいは彼女は必然的に「何か」について書いてしまう。彼あるいは彼女が「何か」について書きたくないというなら、彼あるいは彼女に文章を書くことは不可能だ。ただ、「可能な限り」という但し書きを付けた上でなら、「何について書かれたのでもないものを書く」ことは不可能ではなくなる(『可能な限り』と言っているんだから不可能ではなくなることは当たり前なんだけど!)。

 と、ここまで書いてきて思ったんだけど、「何について書かれたのでもないもの」というのはちょうどこの文章のようなものなのかもしれない。要するに「書くことについて書いたもの」というのは、基本的には「書くこと以外については何も書いていない」ということになるから、100パーセントではないにしても、「何について書かれたのでもないもの」という定義に非常に近いものではある。そうするといわゆるメタみたいなものが「何について書かれたのでもないもの」ということになるわけだけど、正直自分の感覚としてはそういうタイプのものを結論にはしたくない。例外はあるにしても、詩を書くことについての詩や、小説を書くことについての小説というのは、詩人や作家にとってはおもしろくても、それ以外の人間にとってはつまらないものであるケースが多いので。

 とすると、「何について書かれたのでもないもの」とはいったい何なのかというところに話が戻ってしまうわけだけど、あなたは何だと思いますか?